TMMP 酒と肴のエッセイ「酔いの徒然」 文・画 : 柄長 葉之輔 (えながようのすけ)

第二十九回 ソフィアのババ・マルタ

「あれ!まだ十二時? おかしいな、確か十二時ちょっと前にホテルを出てきたのになあ」。
ギリシャからブルガリアのソフィアに向かうため、アテネ空港に着いた時である。「あっ。時計が止まってる」。世界のセイコー最高級品クレドールも所詮、デジタル。バッテリーが無きゃどうしようもない。
「やばい。ソフィア行きは十四時、大丈夫かな。」あわててチェックインカウンターに行けば危うくセーフ。

アテネからソフィアまで、今は懐かしいターボプロップエンジンでゆっくり、雪を被った山越え三時間。
明るく暖かいアテネから一転、ソフィアは雪交じりの夕暮れ。路面電車が走る広い道の両側には、冬枯れの寂しそうな街路樹が延々と続き、旧ロシア時代を髣髴させ一層寂しさを感じさせる。
「今、何時かな。」ポケットから携帯電話を取り出し、「日本と八時間の時差だから・・・。ここは夕方の六時か。でも、一々逆算じゃたまったもんじゃない。」
「マイウオッチ、ノーバッテリー。ウオッチショップ、プリーズ、ゴー・・・」と、若いタクシー運転手に時計を指差し、一路時計屋へ。てっきりホテルまでの途中のデパートか高級時計店に行くと思いきや、下ろされたのは町のはずれの住宅街の小さな修理屋。「ジス・ショップ、ナンバーワン・・・OK!」
黒い拡大鏡を頭から掛けた、いかにも修理屋然とした小太りの老人が、おもむろに時計を修理台に載せる。太い腕の手首には赤白のかわいらしい毛糸のブレスレットを巻き、まずは丁寧に時計のチェーンから解体し始める。
「ウエイト、ウエイト・・・一寸待って、オンリーノーバッテリー、オンリー・・・」。
「イエス、イエス。ノープロブレム・・・」。
鮮やかな手さばきで分解し、バッテリーも入れ替え、おまけにご丁寧に掃除まで。その修理代、なんとたった、一〇ブルガリアドル(六〇〇円)也。
「サンキュー、サンキュー。ところで、胸に着けている赤と白の毛糸の人形は何ですか。それにその毛糸のブレスレット?」
「ああこれ。ババ・マルタ(Baba Marta)と言って、冬の長いブルガリアの伝統風習で、三月になってツバメとかコウノトリを見たら、りんごとかサクランボなどの実のなる木にこれを飾るんですよ。そうすると幸せが一杯。白は健康、赤は幸せ」。
“春よ来い! 早く来い! ”
いいですね。ゆっくりのんびりアナログ風情。いつもデジタルじゃ味気ない。