文・画 : 柄長 葉之輔 (えながようのすけ)
第十八回 ローマ教皇に会った少年たち
「直ちに聖人への認定を!」と、バチカン・サンピエトロ広場に集まった数百万の人々の願いの中、惜しまれつつ、ヨゼフ・パウロ二世が天に召されて、はや一ヶ月。コンクラーベにより、新教皇ベネディクト十六世が選ばれ、世界中の要人が参列する中で、賑々しく即位式が行われた。我国からも前外務大臣が特使として急遽形式参列したのであるが、ただ、ファーストクラスで成田・ローマの直行便に十二時間乗って空気を吸ってきただけで、特に存在価値も意味も無し。
驚く勿れ、今から遡ること四百二十年前、グレゴリオ暦で有名な教皇グレゴリオ十三世晩年での謁見と葬式、そしてその後を継いだシスト五世の即位式にも参列した少年たちがいたのである。
それは九州雄藩大友宗麟等が派遣した天正少年使節、伊東マンショ、千々石ミゲル、原マルチノ、中浦ジュリアンのうら若きクワトロ・ラガッツィなのである。
巡察師ヴァリアーノに伴われ、長崎を出帆したのは一五八二(天正十)年二月、信長が本能寺で暗殺される数ヶ月前であった。マカオ、ゴア、喜望峰を廻ってポルトガルに上陸、スペインを経て、一五八五年三月、三年の歳月を経て、漸くヴァチカンで教皇グレゴリオ十三世の謁見を賜った。「地の果ての使者」、キリスト誕生の「東方の三賢人」とも称された一行は、ローマ市民に驚異と感動を持って大歓迎されたのである。
「・・・・・・慣例に従い、華々しく迎えられ、その座に着きたり。群集はこれを観て目と心を奪われ、いずれも胸中に異常なる感動を覚えたり。・・・・・・」 ----
グァルティエリ、日本遣欧使節記(一五八六年)より
一五四九年キリスト教がフランシスコ・ザビエルによって日本にもたらされて僅か三十余年にして、このような使節を送り出すキリスト教の力、戦国武将たちの世界に向けた意気込みとその国際感覚に驚嘆させられる。
少年たちは一五八九年、出帆八年後に帰国するが、すでに秀吉の時代となり、キリスト教への弾圧も激しく、徳川時代には禁教令、鎖国が敷かれ、あるものは殉教、あるものは棄教という苛酷な運命を辿って行くことになる。
四百余年前、極東の小国日本と繁栄を誇る西欧社会を舞台にした交流が、キリスト教伝来以来、たった八十年の間に起こり、一挙に消滅したことは、改めて歴史のダイナミズムと凄さを感じさせる。